横浜大空襲74周年、「5・29」横浜大空襲記念の集いが、横浜市中区・にぎわい座で行われた。
横浜市中区伊勢佐木町在住の、当時9歳の吉田小学校3年生だった藤城さんは、学童疎開を皮切りに、大変な思いをされた体験談を話されました。
この機会に「戦争は人を駄目にする」という思いで、二度と恐ろしい戦争が起こらないよう、戦争体験を死ぬまで、次世代に伝えていきたいと言っていました。
横浜歩け歩け運動連合会
藤 城 毅 光
私は昭和11年(1936年)6月29日、中区長者7丁目で生まれた。
家業は小物玩具卸屋を営んでおり、父とお腹の大きな母と、3歳上の姉、それに「米どん」「徳どん」「玉どん」と呼んでい た番頭さん。
それに「まっさん」と呼んでいた、女中さんの7人が家族であった。
この年、2・26事件が起こり、浅草橋か蔵前に、仕入れに行っていた父が足止めに遭い、母は、お腹の子供は大丈夫かと、オロオロしていたと後で話に聞いた。
昭和16年(1941年)、私は長者町の大谷幼稚園の年少組に入園した。
ある朝、ラジオの放送を聞いて、何だろうと感じたが、その内、番頭さんや隣近所の人たちが、店の前に集まり、日本がアメリカに宣戦布告をし、大勝利だと騒いでいた。
その頃の遊び場、常設館前の広場、清正公さまの境内で、チャンバラ、兵隊ごっこや鬼ごっこ。
電車通りに座り込んで、蝋石で飛行機や軍艦の絵を描いたり、オデヲン座や日活会館、電気館にタダで入り込んで映画を見ることだった。
夜の伊勢佐木町は、ちょうちん行列や黒いマントに高下駄を履いた、ヴァイオリンを弾く演歌師や大道芸、夜店も沢山並び、賑やかな楽しい街だった。
昭和18年(1943年)5月、アッツ島玉砕のニュースが流れてきた。
伊勢佐木町地区で、徴兵された部隊が、アッツ島に派遣されていたとの話が伝わり、葬送行列も増えて行った。
この年の冬頃には、どこかで空襲があったとの話が流れ、大人達は防火訓練を行い出した。
学校でも避難訓練が行われ,警戒警報が鳴ると防空頭巾を被り家に帰された。
昭和19年頃小学校3年生以上は縁故か、集団か、学童疎開に行くようになり、5年生になっていた姉は、学童疎開で箱根宮ノ下に行った。
その頃より、夜は灯火管制が引かれ、ロウソクの火も敵の飛行機に見えると注意され、私たちの遊び場は防空壕に変わっていった。
「ウ~」と鳴る警戒警報も度々となり、「ウ~ウ~ウ~」と鳴る空襲警報との間も短くなり,空襲警報が鳴る前に、防空壕に向かって急降下してくるP51のパイロットの顔は今でも覚えている。
米軍の長距離爆撃機B29が本土に飛来した当初、昼間は何機かの日本の戦闘機(雷電)が迎撃していった。
煙を吐いて落ちていくB29も見た。
野毛出陣地の高射砲の音も聞いた。
夜は探照灯に照らされるB29に迎撃していく日本の戦闘機(夜間攻撃機「月光」と聞かされた)も見た。
それを見て、みんな拍手して喜んだ。
それらの日本の反撃もすぐに終わった。
無防備になった横浜の空をグラマン、ダグラス、ロッキードと昼間から飛んできた。
時々、機銃掃射をしてきた。
動くものは犬でも狙われるから「絶対防空壕から顔を出してはいけない」と言われた。
日本の戦闘機はどうしたのだ、高射砲はなぜ撃たないのかと、皆話してい た。
私も思った、不思議だった。
誰かが言った 「本土決戦のため、敵を引き付けている。」のだと、ラジオで聞く大本営の発表は、いつも日本は勝っていた。
負けることなど考えたことも無かった。
夜の警報が多くなると、暗闇の中でもすぐ着替える練習をした。
その内、避難できる支度のまま寝るようになった。
オデヲン座の地下に避難した時などは、広いので遊びまわった。
昭和20年3月、私の家の前の電車通りを、日ノ 出町から長者町1丁目まで防火帯を作るため, 強制建物疎開で取り壊されることになった。
私は悲しかった。
取り壊しに来た兵隊さんに「嫌だ、嫌だ」と言った。
兵隊さんは「坊や、日本は戦争に必ず勝つから、隣組のみんなも、今までよりきれいな家を建てて、戻って来るから」と言われた。
私の家や隣組の家は、兵隊さんがロープで引っ張ると簡単に潰れた。
私は幾晩も布団の中で、悲しくて泣いた。
その時は、同じ町内会であった、伊勢佐木町3丁目の持ち主が疎開で、空家になっている店に引越し、商売を続けていた。
4月、吉田国民学校3年生になった私は、学童疎開で箱根宮ノ下の「対星館」にいった。
先に「大和館」に行っていた姉は、中耳炎の手術のため、私と入れ替るように横浜に帰って行った。
その間、5月29日の横浜大空襲があり、母35歳、姉12歳(浩子ちゃん)、弟7歳(忠孝ちゃん)、妹5歳、下の妹3歳、小僧さん16歳(大河原和男、横浜出身)、子守さん17歳(宮島勝子、信州の辰野出身)、叔父(父の弟)35,6歳の8人が焼死し遺体も判らず不明になっていた。
このことは、私に知らされていなかった。
6月に入った頃、「横浜に空襲があり、みんな焼けてしまった。」という噂が流れた。
私が先生に聞くと、「日本は戦争に負けない、空襲もない。」と言われた。
しかし何か変だった。
私が手紙を家に出すと、表に赤い字で書かれた小さな紙が貼られて戻ってきた。
私にほ読めない字なので、先生に聞くと、こんな難しい字は先生にも読めない。」と言われた。
どこか変わってきていた。
夜中に生米をかじるために、盗みに行った米俵もなくなってきていた。
おなかが減ってたまらず、蛇、蛙、カタツムりなど、口に入るものは何でも取って食べた。
夢もよく見た。
おはぎの山の上に母がいた。
弟、妹もいて手招きをしていた。
しかし家との連終は出来なかった。
7月に人り、箱根も米軍の艦砲射撃の射程内に入るので、東北地方へ移動するという話が出てきて、その前に親は子供を引き取りに来てほしい。
ということとなり、大勢の生徒たちが親と一緒に家に帰って行った。
この頃になると私も横浜の空襲で、家族がみんな死んでしまったのではないかと、思うようになっていた。
昭和20年8月15日、終戦。
泣いて玉音放送を聞いた頃から、疎開児童も親が迎えに来ていなくなっていった。
先生、寮母さんもいなくなっていった。
最後は1部屋に私たち4,5人が残された。
元気なうちは外に出て、草や葉っぱ、蟹、虫など口に入るものは何でも食べた。
そのうち食べるものもなくなり、部屋でごろごろしているようになった。
体には吹き出物が出来、蚤、軸に食われて掻くとすぐ膿んだ。
誰も話をしなくなった。
9月19日頃だと思う。
突然、父が復員兵を連れて私を迎えに来た。
父は、私の顔を見るなり何も言わずに泣き出した。
そして、5月29日の横浜空襲で、母、姉、弟、妹2人、小僧さん、子守さん、叔父の8人が戦災で死んだことを話してくれた。
父は,「3日間、みんなを捜し廻ったが、男女の区別も解らない状態で、死体を捜すことは出来なかった。」と、帰ってこないことは死んだことだと思う。」と泣きながら話した。
その時の私は、父親に会えた懐かしさも、捜し出された嬉しさも、母や家族が死んだ悲しさも、感じることも無く、ただ黙って話を聞いているだけだった。
しかし、当時の私は現代の飢餓に苦しんでいる、アフリカの子供たちのように、何の感情も感動もなく、ただ生きている極限状態になっていたのだと思う。
後1ヶ月捜し出されなかったら、あるいは死んでいたかもしれない。
その日のうちに私たち3人は玉川学園駅に着いた、真っ暗だった。
山道を歩き、疎開先(長津田の農家)に着いた。
奈良村だった。
ご飯が食べられ美味しかった。
復員兵は、強制建物疎開の時、うちの品物は女中さんの「マッサン」の実家の、長津田に疎開させてあり、「マッサン」の弟さんであった。
私は、そこで栄養失調になり寝込んだ。
父は近所の農家に行き、疎開させてあった、母の着物と鶏とを交換し、私に食べさせた。
玉音放送を聞き、連れ戻されるまでの、6ヶ月程であったが、箱根での疎開生活は小学校3年生の私にとって、辛く苦しく悲しいものであり、発育期の栄養失調のため、骨格も小さく、血管も細いと医者に言われた。
70余年も経った現在まで、私の心に重く残り、その後の私の精神、健康、感情、情緒等すべてが、ここから始まったように思っている。
私のうろ覚えの記憶であるが、小学校を卒業してわが家へ奉公に来た、戦災に遭い、死んでしまった小僧さん、子守さんを何とかして、昭和20年5月29日の横浜大空襲で、我が家の家族と一緒に亡くなったと、ご遺族に伝えたいと思っている。
写真出典:横浜市資料室 他